しなやかな貴金属

淀みのrhythmからなる雪隠

2022~2023 冬 短歌

今年の冬も,寒かったですね。私事ですが,短歌を始めました。ゆるく続けていきます。毎シーズン100首作れるおじいちゃんを目指して,頑張っていきたいと思います。

 

1. 冬の朝我仁王立ち畦道に黄金(こがね)の滝壺煙立たせる

2. 雪化粧稚児が真っ赤に粉吹いた頬の代わりに鍋つつく夜

3. 月飛沫師走夕刻黒光り凍てつく風とタイムトラベル

4. 寝落ちして蒸れた重ね着スパイシー肴に朝からオレンジサワー

5. 時雨来て来て走り出せ 雪より冷たい雲の遊撃

6. 吐く息の染める/不織布マスク どこまでの白/どこからが白

7. 雪の中潜ませたるは缶ビール薪を燃やして喉を乾かす

8. 氷点下肺に入れたる散らばりを星座に結んで空に吐き出す

9. あと少し三寒四温ヒヤシンス地中と手つなぐ打ち上げ花火

10. ほつれてるピンクのジャンパーお揃いでどちらが先に冬が終わるか

判子の美学

文字が踊るようになった なんとなく必要な文字は浮き上がるようにしてくれている 角度も、どんなに個性的にも でもくうちゅうにのる性格の良い判子だ


まなざしこそが判子だと思う まなざされることによって、彼らは権威を察知する ぼくが去っていくのは見ていない、から再構成されることはない

思弁的実在論わけわからん「簡単!メイヤスーの巻」

思弁的実在論は,メイヤスー,グラント,ハーマン,ブラシエの四流派それぞれ違う道筋で人間と非人間という区分を疑っていく思想という理解です。
なんだか,当たり前すぎて逆によくわかりません。アクターネットワークセオリーも,オブジェクト指向存在論も,頻繁に離人感に苛まれる自分にとっては当然すぎて,なぜここまでまどろっこしい論理展開をしているのかわかりません。偶像崇拝を禁止したキリスト教の呪いが西洋哲学にはいまだに巣くっているのでしょうか。キリスト教以前,偶像崇拝が許されていた古典ギリシア語には中動態があったことを切り口に、國分功一朗は意志と責任について論じました。ほかにも,西洋哲学の文脈の外からだったら,人間と非人間のもつれあいのアイデアなんて,古来から,世界中に腐るほどあります。そもそも,過去から未来へ時間が流れていることすら,西洋が地球のすみずみまで侵食する前は,まったくあたりまえでなかったように思います。時計がない地域では,相対性理論は直感的に当たり前のことである,かつ,タイムトラベルもマルチバースも当たり前だという想像力を,レヴィストロースを読んでも養えないのでしょうか。
けれども,西洋の文脈で思弁的実在論を突き詰めたところで,つまるところ人間という個人を解体し,主体を縮小させ,自由意志が否定され法の概念が崩壊し近代の息の根が完全に止まる,しかないと思います。東洋思想の一部や,シャーマニズムは最初から理性を否定したからこそ合理性があった(と私たちは解釈する)のです。

ところで,なぜ,今になって,「西洋哲学(個人のことではなく,世の中の雰囲気)」が,それらを受け入れる体制ができたのでしょうか。哲学思想だけではなく,例えばサンデルの「実力も運のうち」などは,法概念と人間の理性を捨象していく方向に加速していく世の中の流れの象徴だと思います。日本でいうと,ケーキの切れない非行少年たち,どうしても頑張れない人たち,AIvs教科書の読めないこどもたち,責任という虚構など,社会学がエイブリズムを鋭敏に批評するムーブメントです。私は,人類全体がスマートフォン依存症になったからだと思います。オブジェクト指向的に考えるなら,スマホが私たちを操っている。つまり,理性を強く信じていた人々が,人間に与えられている主体性など,幻想だったと,直感的に気づく用意ができたということです。思想家は考え抜いて思弁的に実在を考えるから,それはあるていどポジティブで自発的なものであるかもしれませんが,一般人がこの思想に腑に落ちる世界を想像すると,ルサンチマンだらけの世の中をつい予測してしまいます。悟りと違って,それは救いになりえないので。

すごい速度で文章を量産する方法と、今日から実践するという決意

私は文章を書くのがとても苦手だ。大学のレポートやエッセイなどの長い文章を書こうとしても、なかなか重い腰が上がらないし、仮に書き始めることに成功したとて、筆が遅々として進まないことが多い。いつも、ぼんやりとしたイメージは固まっているように思えるのだけど、ずっとグズグズし続けてしまい具体的に形にすることができない。結果、期限直前でゴミみたいなクオリティのレポートを量産しているのが私だ。そのくせ、文章と言っていいのか憚られるような断章的なコメントシートの着眼点だけはたまに面白いと自負しちゃってるので(これも怪しい)、教授から見たら意識だけ高く扱いづらい、さしずめコメシ芸人だ。

 

それでも、ブログが細々とでも続けられているのだから、だいぶマシになった方だ。あとは、文脈を飛ばしすぎず、起承転結と推敲を続ける根気さえあれば、「一般人にしては文章がかける方」ぐらいにはなれるだろう。

 

なぜ、その根気が続かないのか。

それは、常に言いたいことが頭から溢れていて思考整理ができず、どうしたらいいかわからなくなってしまうからだ。

私は何が書きたいのかが選択できない。

直感的に繋がっていそうな2つの点がどう論理的につながるのかがわからない。

自分の頭が元々論理的ではないのだ。直感の断片が脳の中を常にウロウロしていて、支離滅裂であろうとしている。

だから、以前のブログで、私は論理を否定しようとした。断章こそが全てだ、と。しかし、それもある意味で間違っているのかもしれない。断章とはなにか?私はシオランをまっさきに思い浮かべる。けれども、シオランの断章は、決して支離滅裂ではない。彼のアフォリズムに載せられた断章と断章には必ずしも意味のつながりはないけれど、単体での論理はしっかりしている。闇雲に文脈を飛躍させているわけではない。まとまりのない、散らかった文章を否定するつもりではないけれど、私のように、それを逃げ道にするのは間違いだ。様々なロゴスがあって、それが矛盾するのはいいけれど、ロゴスにすらならない単語の羅列は、断章ではなくコンセプチュアルアートに近い。それは、相手の解釈に意味を委ねるということだ。そうではなくて、誰かに自分の確固たる何かを伝えたいのなら、もっと直接的にわかりやすく書かないといけない。

 

多分、私が説明不足の文章を書くのは、自己防衛のためなのだ。自分のことを知ってほしいけど、それに一生懸命になる自分が恥ずかしい察してちゃん。結局、文脈を飛ばしすぎず、起承転結と推敲を続ける根気がないのはプライドの問題で、それと向き合うだけでだいぶ文章が書きやすくなった気がする。

 

 

しかし、それだけでは遅筆すぎる問題は解決しない。もっと速く書きたい。

 

なぜ私はここまで書くのが遅いのか?

ライティングの哲学という本や、読書猿のブログを読んで気づいたことがある。

私は、書くことに関して、自己検閲が強すぎるのではないか。

自己検閲とは、「こうであるべき」「嘘」「虚飾」「世間的にこれは書いてはいけない」みたいな思考のロックのことだ。友人に、「お前にはそういうものないと思ってた」と言われたが、無いというセルフイメージを演出していたし、そもそも自分そう思い込んでいたのだから、当然だ。

嘘をつかない、話を盛らない、世間体を気にしない。それだけで、まるで友達に話しかけているように、すらすらと文章がかけるようになる。なぜこんなに簡単なことに気づかなかったのだろうか。見せたくないところは、あとで隠せばいいのだ。欠けているところは、後で足せばいいのだ。一旦外に出したもので嘘をつくことは、意識的にできる。しかし、自分の中でもやもやと漂う断片について嘘をつくことは、無意識を複雑に交絡させ、執筆者の心は雁字搦めになり、筆は、永久に止まる。

 

読書猿がブログで、レヴィ・ストロースの原稿執筆法について紹介していた。

端的に要約しよう。

「とりあえず自己検閲を外してめちゃくちゃでもいいから書け!」

「その後推敲を繰り返せ!」

推敲を繰り返すのは骨が折れる。退屈で、答えもない、途方もない作業。これからも私の前に大きな課題として立ち塞がり続けるだろう。しかし、自己検閲が外れた文章を書くことだけならば、思いの外楽しい。書くことで思考が整理されるし、自分が思ってもなかったことを言葉に「書かされる」のだ。ライターズハイに入ったとき、思いもよらず、2つの無関係だと思った論理がかっちりつながったり、自分の偏見に気づいて当初の予定とは違う結論に行き着いたりする経験、そこそこ文章が書ける人は身に覚えがあるのではないか。手始めは、自分にとって当たり前のことを当たり前に書けばいい。それだけで、"今よりも頭の良くなかった自分"がぶつかった壁に"今まさにぶつかっている人々"へのメッセージになる。そして、当たり前のことを沢山書くことこそが、自分の外で論理の化学反応を発生させることのできる、唯一の方法である。

 

自己の内側にあるものは無限に肥大する。やっかいなのは、それを私たちが「論理」だと思っているということだ。わかっているつもりだった概念も、人に説明してくれと言われるとしどろもどろになってしまうという経験、皆もしたことがないだろうか。内側にある言葉が万能感によって正しい認知を侵食する前に、私たちはそれらをすべて排出しなければならない。本当は、私の燃え滾る直感など、取るに足らないものなのだから。真に必要なのは、それらを外に出したあと、繋ぎ合わせて編む作業である。その過程で生まれた星座の煌めきこそが本物の美しさだ。そこではじめて、自分の直感が論理として力を持ち始め、他者を動かすことのできる言葉が生まれる。インプットは、少なすぎるぐらいがちょうどいい。もちろん、否応なく大量の情報を浴びさせられる現代社会という文脈を前提とした話だけれども。つまりは、自分の中の淀みを、常に排出し続けることで、自分の中が空っぽになるまで言葉を吐きだすことで、本当の自分がやっと見えてくるということ。幼児的万能感を抜け出し、地に足をつけた生き方をするための、治療のために書くということ。

 

思ったことを、そのまま書けばいい。なんて簡単で、なんて難しいことか。素直に、プライドを捨てて生きるだけで、ここまで生きやすくなるというのに。

 

だから、今回の気づきを、絶対に忘れたくない。せっかく一度掴みかけた思想が、完全に体に取り込まれる前にするりと抜けていってしまう経験を何度もしてきた。今回は、絶対に掴み取ってみせたい。

 

ということで、ここで決意表明をします。

毎日、最低500文字以上、文章を書いていきたいと思う。日々の文字数はスプレッドシートにまとめておこうかな。ブログには推敲してから出すから、リアルタイムの進捗は見せられないのは申し訳ない。ストックが溜まってきたら、明らかに投稿頻度とクオリティがバンバン上がると思うので、そこで判断してください。

それでは。

散文×自由連想法的 みなさん自由におれの精神を分析してください

はじめに

精神分析には、連想を高い強度で続けていって、それらの前後のつながりから無意識を紐解いていく、自由連想法という手法があります。先程、ふと「これをセルフでできないものか」と思い立ち、ロジカルな脳内での推敲をできるだけ排除したうえで、本能で指が求むまま散文を書いてみました。

 

試しに30分ぐらい綴ってみたのだけど、予想よりも俺の脳みそは致命的に無秩序なわけじゃないのかなと思った。ほかの人のもちょっと見てみたいな。今回は時間がなかったのでキリのいいところで止めたけど、もともとは連想が尽きるぎりぎりまでやるといろいろ出てくるというのが肝だから、今度もっと本気でやるかも。まあ、これ本来対話形式でやるものなので、本気でやったところでどのぐらい効果があるのかは知らんです。

最後に。これを読んでみて、何か僕の無意識を解釈できるアイデアあるぜ!となった人は、コメントなど気軽にください。思考を自由に!

以下連想

大人になりたいな!!ママと祭りに行った明らかに不撓な、殺し屋と旅に出る。ポケットにはキャラスティック、星の子はメタンがおすすめ。覗き穴から覗かれた旅は君と愛と勇気と水が必要だな。胸の奥が苦しくても、それは私のせいではなく、いつでも見守ってくれるお星さまのせい。ララララ・ラ・ランドがお気に入りの林君が言っていたのだけど、ままごとっていつでもしてよくて、あるいは皆今でもしていて、胸の奥がきゅっとするのはそれのせいらしい。負けん気の強い林君は、いつでも笑いながら泣きながら心を覗いてくる。いつでも意味をつなげることはしなくていいのに、彼が言うには、電車の広告は現実と夢の世界で内容が違うらしくて、その差を理解できる人が広告業界に行き、できない人はテレパシーで来世を占うしかないんだって。嘘をついていると思うのだけど、でも夢はいつでも広告まで映してくれないのは確か。見抜くための夢とアニメが強くあり続ける日本語と交錯するために剥ぎ取る前立腺はホワイトネスだと思うと言ったら、だれもいなくなっていて、もう頭の中は真っ黒にするしかないと思った。頭と頭が悪いのを比べてみると、遅いのと速いのはあまり問題ではなくて、どこまで何もかもつなげられるか意識を持っていけるかが問題なんだよな。桃色のクローバはよく考えたらヤク中だし、統合失調的に意味を緩めるのとどうしたらいいのだろうバッファを強めていくアガンベン。もう少しあがなうべきだったあの子の象牙抜く式のために飛び降りバンジー曲はいつまでも流れたよん。上げれ上げれ上げれ心はものすごくhopeわさび抜きの人生なんてつまらない。多分これも未来か過去の俺ではない何かが言っている気がするなぜなら俺はこんなこと言わない。自動筆記的に手が動くだけ。長身の「あてがい女」ていうのが都市伝説であって、それに今から会ってきた。そいつは、いつでも夜食すべてが夜食なので、動物とそれらを包括する熊との血統が、本質らしい。友人として恥ずかしいというのは、今までなら意味なかっただろうけど、近代に何を期待しているのだろうか。そうだ、キューバに行こう。ラジオ局はキューバにあるから。話すと長くなるんだけど、キューバというのは存在しなくて、豚肉が高温で置いてある物色市場というのが本体。キューバ共和国というのは国民全員が亡命し大リーガーになることで外貨を稼ぎながら消滅した。アナザースカイ!!飛び立ったら飛び立ったらで物足りないので着地します。今ならすべての国が恐ろしい価格で買えると先ほどの林君が言っておるのであります。ままごとってこういうことだよね。さすがだ林君。恐ろしくなってきたよ小説家がいい文章を書いてるときは考えていない、手が勝手に動く、書かされているといっていたが、「欠かされている」の間違いではないか?村田沙耶香だっけな?意味を強制すると、つまらない繰り返しと凡庸な表現のマルコフ連鎖になる以外にロジカルシンキングの敵はなし。遊びと夜遊びの境界線は明日になるまでわからない。春が来た。春と雪の境界は桜の匂いと否の関係。ロープウェイに乗ったトナカイの苦しさは、たぶんウシガエルを食ったヒキガエル、むしろ遊びに行くあなたたちの根小太郎が苦しいという直観性があるから、既に止めないと!遊べ!遊べ!遊べ!クリアしろ!遊べ!遊べ!人生というクソゲーを遊べ虚飾から逃げろ遊べ!夢を追うな遊べ国から逃げるな遊べ!故郷なんてどうでもいいリズムに乗って書いています、小島よしおだけが重要だよ。苦し紛れのヌートバーやめたら?だって腹ばい星人でしょ?完全に缶詰めになった腹ばいヌートバー。レイシストでウケるお前ら。にゃん。けりを入れた細い細い闇。薄い殺し屋と遊びに行きに戻ってきたよ。柔くはだけた病みのことを海の中から見ると朝に見えるらしい。ほんとかな?それって冥王星の話じゃないの?僕で遊ぶのやめてよ!差別するのはほかならぬ自分と仲間意識の定かではない雲政治だと思う。気味悪がられることは本当はそこまで苦しくなくて、つまりは常識外れの意味外の苦労というものはないに等しい。じゃあ実際何が起こっているのかというと、井戸から出てきた蛙が本当は冥王星やコロセウムにいたという話を勘違いして自分に才能があるぼっちだと思っていたわけ。夢を献血で防止しようとするマスクメロン様にはいささか吐き気がするね。あみあみ恐怖症になれ、おまえ。黒ひげシザースという木漏れ日の森の中に住んでいるおっさんがいて、負けることはないけど屈服させることもできない、俺からしたら最強の男。本当の名前はスナフキンジェンダーロールといい、昔考えていたことだけど、汚いおっさんこそ美しくて胎児はゴミなんだよ。意思をはき違えている。昔に戻ってきたよねコンピューターはおっさんのほうを優先しているから。埋立地に存在するDNAをすべてそろえると、たぶん美しいカエサルが母とキスする絵面が見えるのと同時に、幾千もの星が一つの点に集中し、爆発することなく小さくなることなくただ重なりあるだけの尾行するだけの小説が完成したと連絡があったよ、林君から。本当に林君って誰なんだろう。今日初めて会ったのだけど、本当に誰なのか。友達じゃないややっぱり。やらなきゃいけないことがあるから、今日はそろそろ林君とはおわかれします。今日はありがとうございました。以上。

わたしたちは、断固として、論理を拒否します。

すべての選択肢たちは、常に、間違えている。

正解がないという正解から目を背け続けた結果が21世紀の堕落だとしたら、一体全体どうすればよいのか。これから、意味が過剰だった世界を、また一つの円環に戻す作業が始まる。とりあえず、真摯な旅人であることでしか、わたしたちが報われないのは確かだ。

 

久しぶりに新宿を散歩した。おおきな家とちいさな家、あたらしい家とふるい家。雑多な街を這う坂道を、都庁を北極星にしてぐるぐる回る。スマートフォンを捨てて、行く宛もなく、ただ足を前に運ぶ。人生には、行き止まりはないけれど、出口もない。わたしは心を置き去りにして、歩く。

 

今日のあいにくの曇天模様は、人気のない真昼の住宅街をまろやかにモノクロで包み込み、塞いだ。生活が全く匂わない角ばった無機物たちが、視界を徐々に狂わせていくのを感じる。わたしたちが閑静な住宅街と呼んでいるのは、太陽に見捨てられたこの建物たちの鬱結した沈黙のことなのだと、ふと思った。

 

人間が犯す間違いには、2種類ある。全身全霊で正しいと信じていたものに裏切られることと、間違っていると気づきながら間違い続けること。もう、いいかげん後者のような人生はうんざりだ。

 

生きることは、辛く虚しい。だから、何もかもが間違っているこの世界で、わたしは正しくありたいと強く願う。世界に裏切られることで、わたしたちはまた正しく間違いを犯すことができるのだから。

 

鋭く視界が開け、代々木駅の改札が見えた。建物の体温がだんだんと漲ってくるのを感じる。言葉を介さずとも、人々はすれ違うだけで感情を摩擦し、熱を発し、周縁を赫くする。

空をもう一度見たくなって、止めた。

 

わたしたちは、断固として、論理を拒否します。

10月に読んだもの、観たもの

露骨に後半でガス欠

スマートフォンが壊れ、何もかもがだめになったため、記録が中断してしまいました

 

しばらく歌をうたうことになったので、お硬めの参考書を探していたのだが、特に声楽に詳しくない僕でもなんとなく分かるほどに、マスターピース文化人類学的にも面白く読める。もう少し解剖学の知識があればさらに有意義に咀嚼できそう。

 

知り合いが参加してるのに今更気づいて積ん読消化。

心の底から、ICU高校って良い学校なんだなと思った。それ故、西洋尺度の高知能ばかりというユートピア性があり、牧歌的なインターネット黎明期に似た熟議民主主義を期待してしまう傾向にある。直接話していても何となく感じる。

彼ら彼女らは、もちろん論理の甘さはあれども、高校時代の自分が情けなくなるほど聡明で堂々としていた。しかし一方で、パネリストに関しては全体的に質が低かったように思う。終盤の、仲島ひとみ先生の論考は結構面白かったけれども。

 

 

学業成績よりも「がんばる力」。ICU高校との落差が色々気づきを与えてくれた。

 

異性装の日本史

 

 

 

Dumb Type - S/N - YouTube

 

 

氷の城壁
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リーダーの鬼100則

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[特別読切] 小生の性 - 原作:犬羽々木 作画:kanbe | となりのヤングジャンプ

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