しなやかな貴金属

淀みのrhythmからなる雪隠

思弁的実在論わけわからん「簡単!メイヤスーの巻」

思弁的実在論は,メイヤスー,グラント,ハーマン,ブラシエの四流派それぞれ違う道筋で人間と非人間という区分を疑っていく思想という理解です。
なんだか,当たり前すぎて逆によくわかりません。アクターネットワークセオリーも,オブジェクト指向存在論も,頻繁に離人感に苛まれる自分にとっては当然すぎて,なぜここまでまどろっこしい論理展開をしているのかわかりません。偶像崇拝を禁止したキリスト教の呪いが西洋哲学にはいまだに巣くっているのでしょうか。キリスト教以前,偶像崇拝が許されていた古典ギリシア語には中動態があったことを切り口に、國分功一朗は意志と責任について論じました。ほかにも,西洋哲学の文脈の外からだったら,人間と非人間のもつれあいのアイデアなんて,古来から,世界中に腐るほどあります。そもそも,過去から未来へ時間が流れていることすら,西洋が地球のすみずみまで侵食する前は,まったくあたりまえでなかったように思います。時計がない地域では,相対性理論は直感的に当たり前のことである,かつ,タイムトラベルもマルチバースも当たり前だという想像力を,レヴィストロースを読んでも養えないのでしょうか。
けれども,西洋の文脈で思弁的実在論を突き詰めたところで,つまるところ人間という個人を解体し,主体を縮小させ,自由意志が否定され法の概念が崩壊し近代の息の根が完全に止まる,しかないと思います。東洋思想の一部や,シャーマニズムは最初から理性を否定したからこそ合理性があった(と私たちは解釈する)のです。

ところで,なぜ,今になって,「西洋哲学(個人のことではなく,世の中の雰囲気)」が,それらを受け入れる体制ができたのでしょうか。哲学思想だけではなく,例えばサンデルの「実力も運のうち」などは,法概念と人間の理性を捨象していく方向に加速していく世の中の流れの象徴だと思います。日本でいうと,ケーキの切れない非行少年たち,どうしても頑張れない人たち,AIvs教科書の読めないこどもたち,責任という虚構など,社会学がエイブリズムを鋭敏に批評するムーブメントです。私は,人類全体がスマートフォン依存症になったからだと思います。オブジェクト指向的に考えるなら,スマホが私たちを操っている。つまり,理性を強く信じていた人々が,人間に与えられている主体性など,幻想だったと,直感的に気づく用意ができたということです。思想家は考え抜いて思弁的に実在を考えるから,それはあるていどポジティブで自発的なものであるかもしれませんが,一般人がこの思想に腑に落ちる世界を想像すると,ルサンチマンだらけの世の中をつい予測してしまいます。悟りと違って,それは救いになりえないので。