しなやかな貴金属

淀みのrhythmからなる雪隠

すごい速度で文章を量産する方法と、今日から実践するという決意

私は文章を書くのがとても苦手だ。大学のレポートやエッセイなどの長い文章を書こうとしても、なかなか重い腰が上がらないし、仮に書き始めることに成功したとて、筆が遅々として進まないことが多い。いつも、ぼんやりとしたイメージは固まっているように思えるのだけど、ずっとグズグズし続けてしまい具体的に形にすることができない。結果、期限直前でゴミみたいなクオリティのレポートを量産しているのが私だ。そのくせ、文章と言っていいのか憚られるような断章的なコメントシートの着眼点だけはたまに面白いと自負しちゃってるので(これも怪しい)、教授から見たら意識だけ高く扱いづらい、さしずめコメシ芸人だ。

 

それでも、ブログが細々とでも続けられているのだから、だいぶマシになった方だ。あとは、文脈を飛ばしすぎず、起承転結と推敲を続ける根気さえあれば、「一般人にしては文章がかける方」ぐらいにはなれるだろう。

 

なぜ、その根気が続かないのか。

それは、常に言いたいことが頭から溢れていて思考整理ができず、どうしたらいいかわからなくなってしまうからだ。

私は何が書きたいのかが選択できない。

直感的に繋がっていそうな2つの点がどう論理的につながるのかがわからない。

自分の頭が元々論理的ではないのだ。直感の断片が脳の中を常にウロウロしていて、支離滅裂であろうとしている。

だから、以前のブログで、私は論理を否定しようとした。断章こそが全てだ、と。しかし、それもある意味で間違っているのかもしれない。断章とはなにか?私はシオランをまっさきに思い浮かべる。けれども、シオランの断章は、決して支離滅裂ではない。彼のアフォリズムに載せられた断章と断章には必ずしも意味のつながりはないけれど、単体での論理はしっかりしている。闇雲に文脈を飛躍させているわけではない。まとまりのない、散らかった文章を否定するつもりではないけれど、私のように、それを逃げ道にするのは間違いだ。様々なロゴスがあって、それが矛盾するのはいいけれど、ロゴスにすらならない単語の羅列は、断章ではなくコンセプチュアルアートに近い。それは、相手の解釈に意味を委ねるということだ。そうではなくて、誰かに自分の確固たる何かを伝えたいのなら、もっと直接的にわかりやすく書かないといけない。

 

多分、私が説明不足の文章を書くのは、自己防衛のためなのだ。自分のことを知ってほしいけど、それに一生懸命になる自分が恥ずかしい察してちゃん。結局、文脈を飛ばしすぎず、起承転結と推敲を続ける根気がないのはプライドの問題で、それと向き合うだけでだいぶ文章が書きやすくなった気がする。

 

 

しかし、それだけでは遅筆すぎる問題は解決しない。もっと速く書きたい。

 

なぜ私はここまで書くのが遅いのか?

ライティングの哲学という本や、読書猿のブログを読んで気づいたことがある。

私は、書くことに関して、自己検閲が強すぎるのではないか。

自己検閲とは、「こうであるべき」「嘘」「虚飾」「世間的にこれは書いてはいけない」みたいな思考のロックのことだ。友人に、「お前にはそういうものないと思ってた」と言われたが、無いというセルフイメージを演出していたし、そもそも自分そう思い込んでいたのだから、当然だ。

嘘をつかない、話を盛らない、世間体を気にしない。それだけで、まるで友達に話しかけているように、すらすらと文章がかけるようになる。なぜこんなに簡単なことに気づかなかったのだろうか。見せたくないところは、あとで隠せばいいのだ。欠けているところは、後で足せばいいのだ。一旦外に出したもので嘘をつくことは、意識的にできる。しかし、自分の中でもやもやと漂う断片について嘘をつくことは、無意識を複雑に交絡させ、執筆者の心は雁字搦めになり、筆は、永久に止まる。

 

読書猿がブログで、レヴィ・ストロースの原稿執筆法について紹介していた。

端的に要約しよう。

「とりあえず自己検閲を外してめちゃくちゃでもいいから書け!」

「その後推敲を繰り返せ!」

推敲を繰り返すのは骨が折れる。退屈で、答えもない、途方もない作業。これからも私の前に大きな課題として立ち塞がり続けるだろう。しかし、自己検閲が外れた文章を書くことだけならば、思いの外楽しい。書くことで思考が整理されるし、自分が思ってもなかったことを言葉に「書かされる」のだ。ライターズハイに入ったとき、思いもよらず、2つの無関係だと思った論理がかっちりつながったり、自分の偏見に気づいて当初の予定とは違う結論に行き着いたりする経験、そこそこ文章が書ける人は身に覚えがあるのではないか。手始めは、自分にとって当たり前のことを当たり前に書けばいい。それだけで、"今よりも頭の良くなかった自分"がぶつかった壁に"今まさにぶつかっている人々"へのメッセージになる。そして、当たり前のことを沢山書くことこそが、自分の外で論理の化学反応を発生させることのできる、唯一の方法である。

 

自己の内側にあるものは無限に肥大する。やっかいなのは、それを私たちが「論理」だと思っているということだ。わかっているつもりだった概念も、人に説明してくれと言われるとしどろもどろになってしまうという経験、皆もしたことがないだろうか。内側にある言葉が万能感によって正しい認知を侵食する前に、私たちはそれらをすべて排出しなければならない。本当は、私の燃え滾る直感など、取るに足らないものなのだから。真に必要なのは、それらを外に出したあと、繋ぎ合わせて編む作業である。その過程で生まれた星座の煌めきこそが本物の美しさだ。そこではじめて、自分の直感が論理として力を持ち始め、他者を動かすことのできる言葉が生まれる。インプットは、少なすぎるぐらいがちょうどいい。もちろん、否応なく大量の情報を浴びさせられる現代社会という文脈を前提とした話だけれども。つまりは、自分の中の淀みを、常に排出し続けることで、自分の中が空っぽになるまで言葉を吐きだすことで、本当の自分がやっと見えてくるということ。幼児的万能感を抜け出し、地に足をつけた生き方をするための、治療のために書くということ。

 

思ったことを、そのまま書けばいい。なんて簡単で、なんて難しいことか。素直に、プライドを捨てて生きるだけで、ここまで生きやすくなるというのに。

 

だから、今回の気づきを、絶対に忘れたくない。せっかく一度掴みかけた思想が、完全に体に取り込まれる前にするりと抜けていってしまう経験を何度もしてきた。今回は、絶対に掴み取ってみせたい。

 

ということで、ここで決意表明をします。

毎日、最低500文字以上、文章を書いていきたいと思う。日々の文字数はスプレッドシートにまとめておこうかな。ブログには推敲してから出すから、リアルタイムの進捗は見せられないのは申し訳ない。ストックが溜まってきたら、明らかに投稿頻度とクオリティがバンバン上がると思うので、そこで判断してください。

それでは。