しなやかな貴金属

淀みのrhythmからなる雪隠

反出生主義の矛盾と超克 べネターvsシオラン/ショーペンハウアー

20世紀の反出生主義と,21世紀の反出生主義は似て非なる物だが,混同されがちである。しかし、シンギュラリティ以後,これらの区別はますます重要だ。シオラン/ショーペンハウアーと,ベネター以降の比較を通して,反出生主義の矛盾と超克について考える。

シンギュラリティ以前 科学と反出生主義

シンギュラリティ以前の科学とは,出生主義である。なぜなら,歴史であるから。科学は,フグの肝を食って死んだ愛すべき馬鹿や,死後の形而上地球号を信じた理性が粛々と続けてきた,知識の圧縮と更新なしにはあり得ない。もしあなたがドクターストーンよろしく大昔に放り出されたとして,よほど優秀で運が良くても,エド・スタフォード*1よろしく器用にその日暮らしをするのが限界だろう。つまり,科学の恩恵を受けることは,出生主義というミームの再生産にならざるを得ない。

 

科学の肯定によって出生主義を反復することと,実際に子供を産むことの違いは「間接的か/直接的か」のみだ。そういうわけで,過去を振り返ってみても,反出生主義と科学の相性はあまり良くない。シオラン*2ショーペンハウアー*3など。

シンギュラリティ以後 加速主義*4と反出生主義の接続

ところが,未来,もう来ている無痛文明*5,テクノロジーが思想になる*6*7*8大きな物語を失った21世紀のペシミストは,科学と矛盾しない反出生主義を求めた。そして,インターネットという土壌で,必然的にデイヴィッド・ベネター*9が「バズった」。彼自身は加速主義者ではない。しかし,近年はトーマス・リゴッティ*10やジェームズ・ラヴロック*11など,加速主義と反出生主義を接続する試みが興隆しつつある。加えて,フェミニズムクィア理論とテクノロジーの相性の良さ(良くも悪くも)がある。近い将来,新生児は国家が機械で生み出し,遺伝子学上の親は反血縁主義によって子供を育てるという特権を失う。まずは出産機能の外部化。その次にサイボーグ。最終的には人間の絶滅。

 

メタバースと反出生主義

イギリスの人類学者であるロビン・ダンバーが提唱する理論,ダンバー数によると,人がスムーズかつ安定に関係性を維持できる人数の認知的限界は,150人だ。それ以上は数字・偏見・表象で捉えるしかない。人間は,遠くから,情報としてみているうちは,統計でありAIであり哲学的ゾンビ*12であり,そして,近づくとだんだん個性が見えてくる。観測が他者存在を出生するとも言える。他者意識のフラクタル構造。シミュレーション仮説*13。つまるところ,すべての人間は,他人の意識をどこまで発生させるかの決定権を少なからず持っている。

 

寂しがりやな人類が,友達を千人以上作るために発明した資本主義・進歩主義がシンギュラリティを迎えた。テレビ→インターネット→スマートフォンメタバースが,意識出生のハイパーインフレを起こした。肉体の数は減っているが,意識の数は指数関数的に増えている。だが,いくらテクノロジー側が発達したところで,脳のキャパシティーには限界がある。かくして,限りなく統計に近い脆弱な意識を大量に出産し,即座に忘却する,多産多死社会が到来した。私が山奥で誰ともコミュニケーションせず自給自足で暮らしていれば,三浦春馬は存在せずに済んだ。よって自殺せずに済んだ。

 

そして,意識出生には,リアルとバーチャルの垣根はない。それどころか,コロナや戦争で失われる肉体は統計で処理し,煉獄さんが死んで泣く日本人。全国高校野球選手権よりも,にじさんじ甲子園*14。今まで人間と呼ばれてきた肉体存在の価値は,大暴落している。芸能人に恋をし,アニメキャラクターに恋をし,Vtuberに恋をした。若者の限られたリピドーは全てデータに向かい,国民のほとんどは機械性愛者に改造されつつある。あなたも休日のスクリーンタイムを覗いてゾッとしてみよう。シンギュラリティはもう始まっている。

 

「絵画や詩や音楽は,一世紀の後にはどんな表情をしているだろう。それは誰にも予想のつかぬことだ。アテナイやローマの没落のあとのように,長い休止期がやってくるだろう。表現手段の枯渇のためでもあれば,意識それ自体の衰弱のせいでもある。人間は,過去との絆をむすびなおしたければ,あたらしい素朴さを創りださねばならない。この素朴さがなくては,人間は二度と芸術を再開することができないにちがいない。」

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私の心に住む,死んでいった人々と,神田沙也加を比べてみる。私は神田沙也加とは会ったことがない。見たことがない。皆当たり前のように神田沙也加の自殺という現象を形而下の問題ととらえるけれども。ほんとうに形而下の存在として扱ってよいのか。テレビというプレ・シンギュラリティ,メタバース,神田沙也加は存在しない,形而上の存在。それよりも,私の死んだおばあちゃんは私の心に住んでいる,そっちの方がよっぽど形而下ではないかと思うのだが,なぜ,限りなくAIに近い現代人はなぜ赤の他人である芸能人の自殺に引きずられるのか。つまり,人間は単純接触とリアリティでしか親密さを理解できない。そして,リアリティとは三次元のことではない。

 


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「インターネットは消える運命にある」

「わたしたちはネットと接続したあまりにも多くのセンサー,アクセサリーに囲まれて,そのことに気付くのがどんどん難しくなるでしょう」

インターネットは消える運命にある──Google会長エリック・シュミット | WIRED.jp (2022年8月15日閲覧)

 

境界線が溶けてしまって区別もつけようがないということだ。すべてがリアルで,すべてがバーチャル。意志と表象としての世界。強い感情を伴い,仮想現実を解像度高く認識することは,出産と同義であり,そして,越える。

 

善百合子の「べネター且つシオラン」という欲望

川上未映子は『夏物語』で善百合子という苦痛の主体を出産した。彼女は反出生主義者であり,作中で何度も出生主義者との折り合いのつかなさ,理解されない孤独に苦しむ。

 

「…どうしてみんな,子どもを生むことができるんだろうって考えているだけなの。どうしてこんな暴力的なことを,みんな笑顔でつづけることができるんだろうって。生まれてきたいなんて一度も思ったこともない存在を,こんな途方もないことに,自分の思いだけで引きずりこむことができるのか,わたしはそれがわからないだけなんだよ」

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善百合子は間違えている。子どもを生むことは暴力ではない。子どもを観測し続けることが暴力なのである。ベネターは中絶を肯定する。意識は生殖によって生まれるのではない。子どもを育てること,愛することが他者意識を出産する。一人っ子は良くない。観測対象が少なければ少ないほど,それらの意識はどんどん明瞭になっていくから。

 

善百合子は肉体出産を「賭け」として論理パズルに持ち込む。ベネターを模した思考実験で,デジタルネイチャーに近い,論理≒統計信仰的なパーソナリティ。しかし,同時に文学的な弱さも併せ持つメンヘラだ。彼女の永続的な心身の痛みは,シオランの人生の根幹である"劇的な不眠"と重ね合わせられる。「シオラン,ベネター,善百合子」*15。機械になりたいけども,人間でいたい,ベネター且つシオランでいたいという無理難題。森岡/香山が言う,"コアな反出生主義に雰囲気で集まる「団子」"*16を始めとするライトな反出生主義が陥りがちなパラドックスである。

 

自らの実存的不安や,世界の意味を見出そうという耐え難い意識による反出生主義を,わざわざ功利主義的な世界観で説明しようとしている。善百合子らにとって,「ただ生きるのが苦痛だ,生まれたくなかった」というだけでは寂しいのだ。そして,孤独に苦痛と向き合う寂しさを,論理によって社会化できると信じている。本心では,将来出生主義によってこの世に生まれてくる子どもたちなどどうでもいいのだ。人間は,そこまで他者をありのままに共感できない。だから,籤によって選ばれた1/10の苦痛な人生も,善百合子の経験を投影しているか,空虚な論理による妄想でしかない。「生まれたくなかった」「身体の徹底的な痛み」という一人ぼっちな辛さを,功利主義的論理が社会と繋げてくれる,という希望に縋り,絶望を自分の言葉で語らなくなったシオランなど,存在意義はない。他人のフレームワークを疑いもせず受け入れることこそが,最期まで生まれなかったあなたの子どもや,これから生まれるあなたの子どもに対して最も不誠実で無責任な態度である。べネターという顔出しNGインフルエンサーに言葉を収奪されていることに、いい加減気づかないといけない。

 

超克するために イデオロギーは論理ではなく個性

人間は世界を観測しなければならない。これは罰である。絶えず他者の意識を創造し続ける。絶えずアートに生き続ける。言葉をつかうこと,他者を深く知ろうとすること,本を書くこと,育てること。全てが等しく加害であり,罪である。だから,科学を肯定しながら反出生主義者になれるのは,仏教か,機械だけである。しかし,そのどちらも徹底できない,人間愛を捨て去れない体を持っていると自覚したうえで,科学と反出生主義を同時に支持することは,自ずから社会にダブルバインドされようとしているに等しい。無理な言語化は無自覚なルサンチマンを生む。無意識で中途半端なポジションを張ると,体と言語が一致せずに苦しむことになる。

 

科学は拒否できないし,仏教にも入信できない。機械であることも徹底できない。突き抜けた絶望もできない。そういった先進国の若者は,そもそも反出生主義が体に向いていない。イデオロギーは論理ではなく,個性だ。自分に嘘をつく必要のある思想は思想ではなく,規範であり,いずれ身を滅ぼす。結局,自分がどう生きたいのか,何/誰/己を加害し,何を手に入れるのか,それだけのシンプルな話だ。

 

残念ながら,私たちは,この耐え難いほど複雑でシンプルな世界から逃走することはできない。正解がないという正解から,ロジックで逃げ出すことはできない。論理のべネターではなく,断章のシオラン。嘘っぱちな社会を看破し,世界を引き受けるためには,誠実に,全力で子供を作らず,全力で子供を作るしか,ない。

*1:いかに肉体的にも精神的にも充実させるかをミッションとし,過酷な環境で10日間のサバイバルに挑戦するクレイジーおじさん。代表作:『ザ・秘境生活』

*2:

地上楽園の信奉者たちと私との不和の,その深い理由を指摘せねばならぬとしたら,私は次のように明言しよう。すなわち,人間の抱く一切の企図が,遅かれ早かれ人間自身に刃を向けることになる以上は,理想的な社会形態を追求してもむだなことだ,と。人間の行為は,たとえ高潔なものであろうとも,結局は人間を粉砕するべく,人間の前に立ちふさがるのである。各人は,例外なく,おのれの夢見るものの犠牲となり,みずから実現するものの犠牲となるだろう。生成はその本質からして,私には一個の長々しい贖罪と見える。すなわち,個人であれ集団であれ,人間は自分の遂行した一切の征服行為を,「歴史」の中での一切の前進の歩みを,やがては償わねばならないのである。

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*3:

最近の発言でありさえすれば,常により正しく,後から書かれたものならば,いかなるものでも前に書かれたものを改善しており,いかなる変更も必ず進歩であると信ずることほど大きな誤りはない。思索的頭脳の持ち主,正しい判断の持ち主,真剣に事柄を問題にする人々,すべてこの種の人々は例外にすぎないのであって,うごめく虫類こそ,いわば世間をひろく支配する法則となっている。このような連中となると,例外的な人々が熟慮の結果試みた発言をいつも素早く敏捷に改善しようとして,かってに改悪する。

読書について 他二篇 (岩波文庫) | ショウペンハウエル, Schopenhauer,Arthur, 忍随, 斎藤 |本 | 通販 | Amazon

*4:加速主義 - Wikipedia

*5:森岡正博(2003),『無痛文明論』トランスビュー

*6:古田更一・逆精神病院(2022),Technologyが思想になる。誰も語らないシンギュラリティの真の姿を徹底議論。落合陽一、イーロンマスク、ブテリン - YouTube

*7:古田更一(2022),『本は破れ!』Amazonペーパーバック

*8:古田更一(2021),コロナ自粛と自滅する【ロボットの子供たち】。もしお母さんの顔がロボットだったら,キミはどうするの?「純粋東浩紀批判」。落合陽一のキモさから逃げるな! – カオスフォレスト公式サイト,(2022年8月15日閲覧)

*9:南アフリカ共和国の哲学者。ケープタウン大学哲学科長,教授。主著『生まれてこないほうが良かった 存在してしまうことの害悪』において反出生主義(antinatalism)を擁護した。論理パズル的な分析哲学には批判も多い。

*10:『人類に対する陰謀 恐怖の計略』(2010)に詳しい。未邦訳。

*11:

この新しいITガイアは当然ながら,人間が助産師の役回りをしなかった場合に比べてずっと長い生存期間を維持するだろう。最終的に,有機的ガイアはおそらく死ぬだろう。ただ,わたしたちが人間の祖先の種の絶滅を悼まないように,わたしの想像では,サイボーグたちは人間の滅亡を悲しまないだろう。

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*12:構造や行動は人間と同じに見えるが、主観的意識やクオリアを持たない存在のこと。

*13:シミュレーション仮説 - Wikipedia

*14:【 #にじさんじ甲子園 2022 】決勝 - YouTube

*15:生まれることは悪いことか? では産むことは? 【特別対談】川上未映子×永井均 反出生主義は可能か〜シオラン,べネター,善百合子|Web河出(2022年8月15日閲覧)

*16:

森岡 こう見てくると,反出生主義が注目を集めているというのは,コアな反出生主義の周りに,ニュアンスが微妙に異なるいろいろな意見が集まってきて,ひとかたまりの団子のようになっているということなのかもしれない,と思います。

香山 そしておそらく,コアな反出生主義よりも,その周りに集まっている「団子」のほうがずっと大きいのではないでしょうか。つまり,反出生主義の「生まれてこないほうがよかった」という主張に対して,その本質を深く考えるというよりも,何となく雰囲気で「ああ,そうだよね,私も生まれてこないほうがよかった」と感じる人たちがたくさんいるということ。これはとても現代的な事象だと思います。

香山リカ×森岡正博「反出生主義」対談(前編)~私たちは「生まれてこないほうがよかった」のだろうか? | 時事オピニオン | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス (2022年8月19日閲覧)